平治岳のミヤマキリシマ——山は、約束を守る

山の話

ミヤマキリシマという名前を、声に出して言ってみてほしい。
深山霧島。霧の深い山に咲く、霧島の花。
言葉そのものに、どこか湿った風の匂いがする。

前日の夜、私は車の中で眠った。

駐車場が朝には満車になるという話を聞いていたから、そうするほかなかった。正確に言えば、聞いていたというより、経験者たちの言葉をいくつか拾い集めた結果として、そういう結論に至った。ミヤマキリシマのピーク時期の平治岳というのは、それほどまでに人を引き寄せる場所らしかった。

夜の9時頃に登山口近くの駐車場に着いた。すでに数台の車が止まっていた。みんな同じことを考えていた。シートを倒して、毛布を引っ張り上げて、しばらく天井を眺めた。

外は静かだった。風の音がした。木々がわずかに揺れる気配がした。山の夜というのは、街の夜とは根本的に種類が違う。街の夜は、音がなくなっても何かが残る。光の残像というか、人の気配というか、そういうものがしつこく漂っている。でも山の夜は、音がなくなると本当に何もなくなる。闇が、ちゃんと闇として機能している。

その闇の中で、私はぼんやりと明日のことを考えた。

平治岳に何かを期待していたわけではない、と言えば嘘になる。ミヤマキリシマがピークだという話は耳に入っていた。写真も見ていた。でも写真というのは結局のところ、他人の感動の証明書みたいなもので、自分がそこに立った時に何を感じるかは、行ってみなければわからない。それが山の正直なところだと、私は長い付き合いの中で学んでいた。

毛布の中で目を閉じた。眠れるかどうかわからなかったが、眠れた。山の前夜というのは、案外よく眠れるものだ。期待と緊張が程よく混ざり合って、意識をすんなりと手放させてくれる。

午前5時に目が覚めた。

空はまだ暗かった。車の窓が少し曇っていて、外の景色がぼんやりとしていた。体を起こして、コンビニで買っておいたおにぎりをひとつ食べた。温かいものが飲みたかったが、保温ボトルに入れてきたコーヒーがあった。それを飲みながら空が明るくなっていくのを眺めた。

午前6時、登山を開始した。

朝の空気は冷たかった。6月とは思えない涼しさで、歩き始めてしばらくは上着を脱げなかった。でも足を動かしているうちに体が温まってきて、30分もすれば汗をかき始めた。登山というのはいつもそういうものだ。最初は寒くて、途中から暑くなって、山頂では風で冷える。その繰り返しに、もう何度付き合ってきたかわからない。

最初のうちは道が穏やかで、まだ体も軽かった。木々の間から朝の光が差し込んで、足元の草が露で光っていた。鳥の声がした。名前を知らない鳥だったが、その声はきれいだった。こういう朝に山の中にいられるという事実が、すでに十分な幸福だと思いながら歩いた。

ソバハッケを過ぎたあたりから、道の性格が変わった。

傾斜がきつくなった。足場が悪くなった。木の根が地面から飛び出していて、そこに足を引っかけないように気をつけながら歩かなければならなかった。息が上がり始めた。ペースを落とした。それでも息が上がった。

こういう時、私の頭の中では奇妙なことが起きる。苦しさが増すにつれて、内側から小さな声が聞こえてくるのだ。今日は別に無理して山頂まで行かなくてもいいんじゃないか、という声だ。引き返す理由を探している声だ。長年登山をしていると、この声のことがよくわかってくる。苦しくなった肉体が、脳に向かって送り込んでくる撤退の信号だ。

私はその声を無視することにした。
無視するのが正解だということを、長い経験の中で学んでいたから。

岩が多くなった。両手を使って体を引き上げるような箇所が出てきた。汗が額を伝った。タオルで拭いた。水を飲んだ。足が重くなってきた。ふと立ち止まって振り返ると、来た道が遠くまで見えた。あれだけ歩いてきたのか、と思った。そういう瞬間に、少しだけ救われる気持ちになる。

それでも大戸越までの道はしんどかった。

言い方を変えれば、それだけの対価を払わせる場所だということだ。タダで見せてもらえるものではない。汗と疲労と、膝の重さと、引き返したいという声を全部押し殺した先に、あの景色がある。山というのはそういう仕組みになっている。そして、その仕組みは正しいと私は思っている。

大戸越に出た時、私は立ち止まった。

立ち止まったというより、足が止まった。自分の意思で止めたのか、勝手に止まったのか、今となってはよくわからない。

目の前に、ピンク色の山があった。

山、という言葉ではうまく説明できないかもしれない。斜面全体がミヤマキリシマに覆われていて、岩も土も見えなかった。山が山の形のまま、まるごと花に変わっていた。足元から山頂まで、視界に入るものがすべてピンクだった。

青い空があった。白い雲が流れていた。風がたまに花を揺らした。

それだけだった。

それだけなのに、私は何かを感じた。言葉にしようとすると、どこかに逃げていってしまう種類のものだった。胸の奥のほうに、静かに何かが広がっていく感覚だった。感動という言葉は少し違う気がした。感動はもっと派手なものだ。これはもっと静かで、もっと深いところに来るものだった。

しばらく、ただそこに立っていた。

他の登山者たちも、同じように立っていた。誰もすぐには言葉を発しなかった。大きなものを前にした時、人間は適切な言葉を失う。それは正しい反応だと私は思う。

やがて誰かが「きれいだねえ」と言った。それだけで十分だった。

腰を下ろして、ザックを降ろして、朝食を広げた。おにぎりをひとつと、残りのコーヒーを飲みながら、ただあの景色を見ていた。食べているのか見ているのかよくわからない状態で、かなりの時間をそこで過ごした。

これを見ているだけで、幸せなんだ、と思った。

幸せ、という言葉を使うのを、私はいつも少し躊躇する。その言葉は軽すぎることが多いから。でもあの瞬間については、その言葉を使うほかにない。普段の生活の中では、こういう種類の幸福はなかなか手に入らない。仕事をしていても、スマートフォンを眺めていても、こういう感触は来ない。山が与えてくれるものの種類は、他のどこでも手に入らないものだと、改めて思った。

これだから山が好きなのだと思った。単純で、正直な理由だった。

休憩を終えて、山頂を目指して歩き始めた。

大戸越からの登りも、決して楽ではなかった。両脇にミヤマキリシマが迫っていて、登山道が花のトンネルのようになっている箇所があった。体をかがめながら進んだ。花が顔に触れた。香りがした。淡くて、やさしい香りだった。

山頂が近づくにつれて、視界が開けていった。

そして山頂に立った。

山頂からの景色は、大戸越で見たものとはまた別の種類の圧倒感があった。どこを向いてもピンク色だった。遠くの山の稜線が霞んでいた。風が吹いていた。空が近かった。

多くの登山者たちが山頂にいた。みんな笑顔だった。写真を撮っている人がいた。ただ座って遠くを眺めている人がいた。連れの人と何かを話している人がいた。でも共通しているのは、みんな穏やかな顔をしていたということだ。日常の顔とは少し違う、山にいる時だけの顔だった。

私もしばらく、ただそこに立っていた。

風の音を聞いた。花の揺れを見た。遠くの山と空の境界線をなぞるように目を動かした。時間がゆっくり流れていた。それとも時間の流れ方は変わらないのに、私の受け取り方が変わっていたのかもしれない。山の上では、同じ一分が、平地の一分より長く感じられることがある。それは損でも得でもなく、ただそういうものだ。

誰かが「すごいね」と言って、隣の人が静かに頷いていた。

感動というのは、時に人を寡黙にする。言葉にできないものを無理に言葉にしようとするより、黙って見ていた方が、ずっと誠実だと私は思う。山頂というのは、そういうことを自然にさせてくれる場所だ。

下山を始めて10分ほど経った頃、白いミヤマキリシマを見つけた。

ピンクの海の中で、ひとかたまりだけ、白く咲いていた。

足を止めた。しばらく眺めた。

ミヤマキリシマの白花は珍しい。ピンクが圧倒的な多数派の中で、この株だけが白く咲いていた。それを誰かに教わったわけでも、事前に調べていたわけでもなかった。ただ歩いていて、目に入った。

ピンクの花が声の大きな祝福だとすれば、白い花は静かな約束のようなものだと思った。大勢に向けた言葉ではなく、気づいた者だけに向けられた、小さくて確かなもの。

山というのは、そういうことをする。
派手な景色で人を驚かせておいて、帰り道にひっそりと、もうひとつの贈り物を置いておく。

こんなにも多くのものをもらった一日だった、と下山しながら思った。

前日の夜の車中泊から数えれば、ほぼ丸一日を山に捧げたことになる。疲労があって、膝の重さがあって、でもそれよりはるかに大きな何かが胸の中にあった。車に戻って、シートに座って、ただしばらくそこにいた。

山は、約束を守る場所だと思う。

足を運べば、必ず何かを返してくれる。それが絶景とは限らない。雨かもしれないし、霧かもしれない。でも必ず何かがある。その日の平治岳は、前夜の静かな闇と、ソバハッケのしんどさと、大戸越の圧倒的なピンクと、山頂の笑顔と、下山路の白い花をくれた。

欲しいと思っていたもの以上のものを、もらった気がした。

山というのは、そういう場所だ。いつでも、こちらの期待を少しだけ上回ってくる。

平治岳に登ったことがある方、ミヤマキリシマを見たことがある方、ぜひ感想を聞かせてください。あなたが山からもらったものも、教えてもらえたら嬉しいです。

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