夜明けを盗みに行け——朝駆けという、正気を失った者だけが知る山の顔

山の話

告白しよう。最初に朝駆けをしたとき、私は自分が少しおかしくなったと思った。


午前2時に目覚ましが鳴る。外はまだ真っ暗で、虫の声だけが聞こえる。布団の中で私は真剣に考える。なぜ私は今から山に登ろうとしているのか。 理由を探したが、見当たらなかった。強いて言えば、「一度やった人間がみんな妙な顔をして『最高だった』と言っていたから」というだけだ。それって正直、かなり弱い動機だと思う。詐欺の勧誘と構造が似ている。
でも、私は起き上がった。
そしていま、あの経験を経た私が断言できることがひとつある。
朝駆けは、山が見せてくれる最も正直な顔だ。
そしてもうひとつ断言できることがある。これを知ってしまった人間は、もう普通の登山では少し物足りなくなる。申し訳ないが、そういうものだ。

暗闇の中に放り込まれるということ
ヘッドランプの光は、正直なほど頼りない。
照らせる範囲はせいぜい5メートル。足元の岩、目の前の木の根、そこだけが世界のすべてになる。昼間の登山なら「あの尾根を越えたら山頂だ」と俯瞰できるのに、夜の山ではそれが一切できない。次の一歩、また次の一歩。それしかない。GPSを見ても、地図を見ても、結局は足を動かすしかないという事実に変わりはない。文明の利器というのは、暗闇の登山道では意外と無力だ。
でも不思議なことに、しばらく歩いていると、その頼りなさが清々しくなってくる。
人間は情報が多すぎると迷う生き物だ。選択肢、比較、判断。昼間の生活はそれでいっぱいだ。スマホを開けば誰かの意見が流れてきて、ニュースが流れてきて、気づいたら自分が何を考えていたか分からなくなっている。でも暗闇の登山道では選択肢がない。ひたすら登るだけ。それだけだ。頭の中が、驚くほど静かになる。
私はこれを「山の洗脳」と呼んでいる。良い意味で。
ふもとを出発してしばらくしたとき、草むらからガサガサと音がした。ヘッドランプを向けると、鹿が二頭、こちらをじっと見ていた。驚いた様子もない。「また来たのか、この人間は」という顔だった。彼らはおそらく毎晩ここにいて、たまにヘッドランプを持った妙な生き物が通るのを眺めているのだろう。夜の山では、人間の方が完全に客だ。

星が、落ちてくる


標高が上がるにつれて、木々が低くなり、空が開けてくる。
そのとき頭上を見上げると、息が止まる。
星が、多すぎる。
都市で見る星は「点」だが、山の稜線で見る星は「量」だ。空という空間に星が詰まっている。天の川が、本当に川のように見える。光の帯が、山の端から端まで流れている。プラネタリウムに行ったことのある人は分かると思うが、あれの本物版だ。しかも入場料はかからない。体力だけ持っていかれる。
そしてその星空の下に、月がいる。


由布岳東峰、標高1580メートルの頂標の横に立ったとき、空はまだ夜だった。地平線だけが仄かにオレンジに染まり始めていた。月は中天にあり、その下には街の灯りが雲海の隙間からこぼれて見えていた。
頂標の文字——「由布岳東峰 一五八〇M」。その後ろに広がる群青の空と、沈もうとしている星たちと、昇ろうとしている朝の色。
あの光景の前では、私は登山家でも何でもなく、ただの生き物だった。それで十分だと思った。というか、それ以外に何になれというのか。

夜明けは、待つものではなく、迎えに行くものだこれが朝駆けの本質だと、私は思っている。


普通の人間は夜明けを「待つ」。布団の中で、あるいはカーテン越しに、気づいたら朝になっている。誰も文句を言わないし、それで困ることもない。でも朝駆けをする人間は、夜明けを「迎えに行く」。暗い山道を登り、稜線に立ち、地平線が白んでいく瞬間を、全身で受け取りに行く。
能動的な朝だ。
太陽が昇る瞬間というのは、あっという間だ。5分前はまだ夜で、5分後にはもう朝になっている。その境界線は、山の上でしか見えない。平地にいると、気づいたら明るくなっているだけだ。でも稜線に立っていると、光が「やってくる」のが分かる。東の空が白くなり、オレンジになり、赤くなり、そして突然、山の端から光が溢れ出す。
その瞬間、風が来る。
朝の最初の風は、冷たくて、清潔で、まるで空気が新品になったみたいだ。光と風が同時にやってくるあの瞬間——それを一度知ってしまったら、もう普通の時間には登れなくなる。これは警告として書いておく。知らなかったとは言わせない。
初めて朝駆けをした先輩に「どうだった?」と聞いたとき、彼は「説明できない」とだけ言った。当時の私はそれを聞いて、少し馬鹿にした。説明できないなら黙っていればいいのに、と思った。いまは心から謝りたい。あなたは正しかった。これは説明するものではなく、体験するものだ。

雲海という名の、神様のプール
朝駆けがもたらすもうひとつの奇跡が、雲海だ。
山の上から見下ろすと、谷が雲で埋まっている。街が、道が、日常のすべてが、白い綿の下に沈んでいる。その光景には現実感がない。自分が今、日常の「上」にいることを、視覚的に教えてくれる。これほど分かりやすい比喩もないと思う。文字通り、日常の上に立っているのだから。
その白い起伏を見ていると、本当に何かがそこで泳いでいるような気がしてくる。雲は生きている。流れ、積み重なり、崩れ、また形を変える。静止した風景なのに、どこか動いている。見ていると時間を忘れる。気づいたら30分経っていたということが、一度や二度ではない。
そして山の影が、雲海の上に伸びていく。
山頂から、谷の向こうまで、山が三角形の影を落としている。光の角度と雲の厚さが揃ったときだけ現れる、一日に一度きりの現象だ。山がそこにある、という証拠が、光と影で描かれる。これほど鮮やかに「自分が今どこにいるか」を教えてくれる景色を、私は他に知らない。

お鉢周りの静けさ


雲海を眺めながら、稜線を歩く。
お鉢周りというのは、火山の縁を一周することだ。由布岳にはそれができるルートがある。朝の光の中で、緑に覆われた岩稜を歩く。岩の上には苔や地衣類が張り付いて、灰色の石を白く染めている。
鋭く天に向かって立ち上がる岩と、その向こうに続く稜線。ピンクの雲が山の背後に流れている。飛行機雲が一本、空を横切っている。誰かが乗っているはずだが、その人はおそらく今この稜線のことを知らない。知らなくていい。知っている人間だけが歩けばいい。
静かだ、という言葉は正確ではない。風はある。鳥の声もある。でもそれらの音は「静けさ」の一部だ。都市の音は静けさを壊す。でも山の音は静けさを作る。この違いを説明するのは難しいが、体で分かる人には分かると思う。
お鉢を歩きながら、私はいつも「もったいない」と思う。
こんな時間が、毎朝ここにある。でも誰も来ていない。麓の町では今頃、スマホのアラームが鳴り、コーヒーメーカーが唸り、通勤の準備が始まっている。それと同じ時刻に、山の上ではこの景色が広がっている。
知らないのは、損だと思う。損、という言葉が山の話に似合わない気もするが、これは本当に損だと思う。

頭がおかしい人の特権


最初に私はこう思った。「朝駆けってのは、頭がおかしい人の特権だ」と。
今でもそれは正しいと思っている。ただ、「頭がおかしい」の定義が変わった。
効率で動かない人間のことを、世間は「おかしい」と言う。午前2時に起きて山に登るのは、確かに効率的ではない。睡眠時間は削られ、翌日は眠い。合理的な判断ではない。職場でそれを話すと、大抵の人は「すごいね」と言って、その後「でも私には無理だな」と付け加える。みんなそう言う。みんなが「無理」と言うものは、たいていやっていないだけだ。
でも、合理性が届かない場所にこそ、本物の経験がある。
星の下を歩くこと。夜明けを光の中で受け取ること。雲海の上に立つこと。岩稜に朝露が光っているのを見ること。それらは何かの役に立つわけではない。お金にもならない。資格にもならない。履歴書に書けない。でも、それをやった人間の内側には、確かに何かが積み重なる。
言葉にできない何かが。
私はそれを「山の利息」と呼んでいる。すぐには回収できないが、長い時間をかけて、静かに増えていくものだ。複利だと思う。山の経験は複利で効いてくる。
朝駆けを終えて下山するとき、私はいつも少しだけ惜しい気持ちになる。この時間を誰かに渡せたらと思う。でも渡せない。これは体でしか受け取れないものだ。文章で読んでも、写真を見ても、半分も伝わらないと私は思っている。
だから書く。半分しか伝わらなくても、その半分で誰かが「行ってみようかな」と思ってくれたら、それで十分だ。
さあ、一度くらい、頭がおかしくなってみてはどうだろう。
目覚ましを2時にセットして、ヘッドランプを出して、登山靴を玄関に並べる。それだけでいい。あとは山が、ぜんぶ教えてくれる。
約束する。

by かもめの / fukata-invest.com

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