山と父と、あの朝のトイレのこと

山の話

子どもの頃、父がぽつりと言ったことがある。
「山、行くか」
それだけだった。特別な前置きも、理由もなかった。父という人は、そういう男だった。多くを語らず、誘う時も誘われた側が断れないほどの静けさで、ただ一言だけ置いていく。
私はうん、と言った。今思えば、あれほど即答したことが、後にも先にもあっただろうか。
前日の夜から準備をした。リュックに何を入れたかはもう覚えていないが、ひとつひとつ丁寧に詰めた記憶だけが残っている。父と山に行く。それだけで、世界がいくらか輝いて見えた。
ところが、出発の朝にお腹が痛くなった。
何故よりによってその日に、と今でも思う。トイレに籠っている間に、バスは行ってしまった。父は何も言わなかった。責めもしなかった。それがかえって、子どもには堪えた。
その後、私は何度も父を誘った。今度こそ行こう、と。しかし父は、あの日以来、山には連れて行ってくれなかった。なぜかは、ついに聞けなかった。聞ける雰囲気でもなかったし、聞く必要もないような気がして、そのままになった。
父の見えないところで泣いたのを、今でも覚えている。

去年から、私は山を登るようになった。
きっかけは大したことではない。ただ気がつけば、山の方へ足が向いていた。体が覚えているというよりは、何かを探しているような感覚で、ひとり歩き出していた。
娘を誘うこともある。小学六年生になった娘は、誘うと嬉しそうに「行く」と言う。あの頃の私が、父に言ったように。
その顔を見るたびに、あの朝のことを思い出す。バスが行ってしまった朝のことを。父が黙って立っていた、あの停留所のことを。
今の私は、あの頃の父の年齢に近づきつつある。それを考えると、妙な気持ちになる。父はあの時、何を思っていたのだろう。息子がトイレから出てこない間、停留所でバスを見送りながら、何を思っていたのだろう。

娘は来年、中学生になる。
山についてきてくれる時間が、あとどれほど残っているかは分からない。彼女には彼女の世界が、これからどんどん広がっていく。それは喜ばしいことであり、少しだけ寂しいことでもある。
先日も一緒に山を登った。頂上で、娘は何も言わず遠くを見ていた。私も黙って、同じ方向を見ていた。
父と私も、あの日もし山に行けていたら、こういう時間を持てたのだろうか。
そんなことを考えながら、隣に立つ娘の横顔を、そっと見た。
答えは、もうここにある気がした。​​​​​​​​​​​​​​​​

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